ぼくの神さま
2008-06-12(Thu)

監督:ユレク・ボガエヴィッチ
製作:2001年 アメリカ
出演:*ハーレイ・ジョエル・オスメント *ウィレム・デフォー *リアム・ヘス
美しい村、無垢な子供たち。
何があろうとも一生懸命に生きる小さな命
こういう子供が悲しい目に遭う映画って、
泣けちゃってダメなんですよね。。。
でも、後味が悪くても、戦争の実態は知っておかなくちゃ、って思ったりして。
ネタバレあります
ポーランドの街で、ナチス軍によるユダヤ人の強制連行が始まっていた。
ユダヤ人の少年ロメック(ハーレイくん)は、生き延びるため、
親元を離れ、一人田舎に預けられます。
彼がユダヤ人であるのを知っているのは、
預けられた家の夫婦と、村の教会の神父(ウィレム・デフォー)だけ。
それを隠して、カトリック信者だと偽装しなければいけませんでした。
そして自然の美しい田舎の村にも戦争の恐怖が忍び寄ってくるんです。
主役は一応ハーレイくんなんですが、
村人たちの生活の様子や、子供達の交流が話の中心だし、
なんと言っても、一番小さな子トロ(リアム・ヘス)が印象的で、
完全にハーレイくんは食われてましたね~
もう目がクリックリで、すっごくかわいいんですよ★
ナチスは本当に卑劣で、容赦なく人を殺していきます。
ユダヤ人はもちろんの事、許可なく豚を飼っていたという人も。
それを見たら、繊細な子供の心はダイレクトに傷付きますよ!
戦争というものが、だんだん子供の心を蝕んでいくんです。
信仰にすがっても、事態は良くならず、
神父でさえ、自分の無力さに嘆くしかありません。
ロメックは、村の子供達と一緒にキリスト洗礼の儀式を受ける事になり、
本来はユダヤ教であるため、ためらいがありました。
儀式では、キリストの肉とされる丸いパンを口にする事になっています。
神父は気を利かせて、ロメックには丸く型抜きした残りの端を
渡すようにしました。
「ぼくは端っこ(edge)なの?祝福されてない?」と聞きます。
「人間はみな端っこ(edges)なのさ」と答える神父。
原題の「Edges of the Lord」に通じるシーンです。
「人間はみな神の一端である」という慰めに対して
「神様の祝福の届かない端っこ」とも取れます。
(このあたりの意味は曖昧で、思い込みの感想になってます)
ぼくの神様はユダヤ教でもキリスト教でも
人を公平に祝福してくれないんだ・・・
ロメックも神父でさえも、そして誰もが嘆くほど、現実は酷過ぎました。
そんな中、一番小さなトロは、十二使徒になるゲームを経験し、
キリストがユダヤ人であり、自己犠牲で人を救ったと聞いて、
変化していきます。キリストの苦行を体験しようとするんです。
茨の冠を被ったり、磔にされようとしたり。
自分がイエスになれば、死んだ父親も戻ってくるとまで言い出します。
トロなりに真剣で、キリストに近付こうとしていました。
最後、トロの自己犠牲による悲劇は見ていられませんでした。
彼は完全にキリストと同化していたのでしょう。
ゴルゴダの丘へ向かうキリストのように汽車に乗り込んでいきました。
自分の身を挺して、戦争という人間の罪を購おうとしたんです。
それをしたところで、現状は変わらないに決まっています。
だからなお一層、悲しみが押し寄せてきました。
あんな小さな子供が、そう行動せずにはいられなかった、
戦争の悲惨さ、それが胸に突き刺さってきました。
ものすごく切ないです。
あの迷いのない崇高な眼差し。
あれは忘れられません。
ロメックにとって、トロが「ぼくの神さま」になったんじゃないでしょうか。